殖えすぎた人間 ~相次ぐ高齢ドライバーによる交通事故をうけて~
こんにちは。
Ryoです。
今回は、「嫌いな人がいるということ」でちょっとだけ書いた、「人間が殖えすぎてしまったことによる負の要素」について詳しく書いていこうと思う。
きっと私の魂の叫びになるので、良かったら最後までお付き合いください。
では行こう。
まずは、人間が殖えすぎてしまったことによる負の要素を書き出していく。
・大して優秀でもない人間が優秀ぶるようになった
・忖度が激しくなった
・一人一人の生活を尊重するあまり、給与や雇用機会の無駄遣いが増えた
・現実問題を直視できない層が出現した
とりあえずこんなものか。
それでは、それぞれの項目について詳しく説明していこう。
1つめは、「大して優秀でもない人間が優秀ぶるようになった」こと。
これは、人間が殖えすぎたことで、100点満点中30点の人間が人間の上に立つことが組織として可能になってしまったことによる負の要素だ。
人間に点数をつけるのは本来あまり好ましくないが、殖えすぎた人間を能力別にクラス分けするとなると、点数制で100分割するのが一番手っ取り早いため、今回はこういった方法を取らせていただいた。
点数をつける基準としては、人間性の良し悪しや精神年齢等、「普通の人間が否か」というラインを最も重要視し、その他それぞれの項目ごとに基準を設けて点数をつけていく。
無論、この点数というのは形而上的な基準であり、実際の人間一人一人に点数がつけられるというのはあってはならないことだ。
大企業・中小企業・学校等関係なく、人間としての点数が明らかに低い人間が上の立場にいることがある。
その中には、人間としての点数が低いだけで、組織を統率する能力を人並みに持ち合わせている人間も存在するため、非常に厄介。
そういった点数の低い人間、つまり人間性が欠如している人間が人の上に立つとどうなるか。
"威張り散らかす"のである。
点数が低いがゆえに、外の世界では劣等感を植え付けられ、自己肯定感を粉砕されていたことだろう。
そのようなある種の我慢が、自分が上の立場として扱われるようになった途端に解放されてしまうのだ。
その人の境遇を鑑みれば仕方のないこと……なのかもしれないが、その人間の下で動く人間はどう思うだろうか。
人間性の欠如した人間と共に働きたいと思うだろうか。
よく言われる「やべーやつ」というのには、ここで書いたような人間性が欠如した人間も含まれていると思うが、普通の人間なら「やべーやつ」とは距離を置きたがるはずだ。
となると結果的に統率が取れなくなり、組織として崩壊するのだ。
それでもなおそういった人間が、「大人の事情」というやつで上の立場に居座り続けているのが現実だ。
その「大人の事情」が何かと言えば、続いての項目である「忖度が激しくなった」というところに繋がってくる。
これは、人間が殖えすぎたことで社会が複雑化し、ジレンマによるどうしようもなさが至るところに蔓延っている、という問題である。
どういうことかと言うと、たとえば自動車。
最近、高齢ドライバーによる交通事故が相次いでいて、これについては何らかの対策を取らなければ、この先も続いていくと考えられる。
では、社会全体のために自動車そのものを廃止し、移動手段を自転車やバス、電車に完全移行することは可能か?
現実問題としてこれは不可能である。
まず自動車を廃止すると大手自動車会社は軒並み倒産、道路は使われなくなり、整備も必要なくなるためそういった工事会社も倒産、ガソリンスタンドも高速道路も必要なくなり、有料駐車場も他の用途に使われることになるだろう。
このように、自動車を廃止すると多くの人間が職を失うため、自動車を廃止することは社会的にノーなのだ。
交通事故で亡くなる幾つかの命より、多くの人間の生活が優先なのである。
もし政府が自動車廃止を始めれば、支持率を失って政権を維持するのが困難になるばかりか、数字以上に多くの人間からの反感を買い、信頼を失う。
ほら、忖度だ。
「それは屁理屈だろう」
じゃあもう少し現実的な話をしよう。
自動車の話から広げてみると、たとえば免許制度の見直しがある。
免許更新の際、講習だけで終わらせずに実技・筆記試験を行う方針をとり、合格ラインも非常に高く設定すれば、少し事故は減らせるだろう。
それは可能か?
現実問題として、これは不可能である。
なぜかはもうわかるだろう。
免許更新センターの人たちの仕事が大幅に増え、手間もコストもかかるようになり、合格ラインに届かずに免許停止を受けた人からは反感を買うことになる。
このように、免許を受けられる難易度を上げてしまうことも、半分くらい社会的にノーなのだ。
免許更新センターの仕事量や、免許停止を受けた人からの反感を無視すればできなくもなさそうだが、さすがに酷だろうし、免許更新センターで働く人も減っていくに違いない。
事故減少のための具体的な方策より、自動車を使う人間や免許更新センターで働く人間の生活が優先なのである。
ほら、忖度だ。
もうどうしようもないね。
人間が殖えすぎたことで、ある1つの有効な方策を打ち出そうとすると、他の人間から反感を買うので実行できない。
社会は改善されないまま、忖度だけが加速する。
続いての項目の「一人一人の生活を尊重するあまり、給与や雇用機会の無駄遣いが増えた」にも忖度が深く関わっていることは、もう文面から伝わるだろう。
殖えすぎた人間一人一人の命を繋ぐため、一人一人に雇用機会を与え、一人一人に給与を出す。
明らかな無駄遣いだ。
ではたとえば、免許停止を受けた人たちの雇用と給与を剥奪し、その分を免許更新センターに充てたらどうなる?
今までより高い給与、今までより多い人手があれば、免許制度の見直しがより現実的なものになってこないだろうか。
そうすれば事故は確実に減少し、本来の目的である交通事故で亡くなる命を減らすというところに繋がってくるんじゃなかろうか。
忖度を止め、免許と給与と雇用を剥奪された人間を「殖えすぎた部分」として切り落とせば、すべて上手くいくように思えて仕方がないのだ。
まあ、このアイデアが実現可能かと言われれば、人権だのなんだのの存在により、不可能であると言わざるを得ない。
(一応断っておくが、「殖えすぎた部分」を切り落としたいと言っても、人殺しになろうだとか人権を侵害してやろうだとか、そういうことを考えているわけでは決してない。
むしろ、現実的にそんなことができないからこそこんなにも嘆いているのだ。
本当にもうどうしようもないよ)
では続いて最後の項目、「現実問題を直視できない層が出現した」に入る。
先日、人里に降りてきた子熊を、安全のために射殺した、という事案があった。
私はこれを正しいことだと思ったが、これについてのコメントの中に「なにもしていない動物を殺すなんて酷い!人間と動物が共存できる社会を目指すべき!」というものがあった。
さすがに笑った。
このコメントをした人に対して、もう少し考えを巡らせてみてはどうか、と思った。
確かに、このコメントが主張していることは美しいし、理想的だ。
そんな社会が実現しようものなら、人間は殖えすぎても良かったんだと少しでも思えるようになることだろう。
でも、今回子熊が人里に降りてきたその瞬間には、まだ実現できていなかった。
周辺住民の安全を考慮して、子熊を射殺するのが現実的な解決策だった。
それを「殺すな」というのは、逆に周辺住民に犠牲になってくれと言っているようなものだ。
100年くらい前、三毛別羆事件という凄惨な事件があった。
多くの人間が羆(ヒグマ)に食べられた、というけっこうエグい事件だ。
まじで調べない方がいいよ、私は2日くらい立ち直れなかった。
つまり何が言いたいかというと、熊にとって人間はエサにすぎない、ということだ。
森で遭遇した熊が人間を襲うのは、生存本能、恐怖心からであるみたいだが、それによって人間の味を覚えた熊は我々にとって大きな驚異となるだろう。
殺らなきゃ殺られるのだ。
人間という種の生存のためには、遭遇した熊は殺さなければならない。
そういうことも知らずに綺麗事を並べ、とりあえず批判したがる輩が一定数いる。
人格の多様性を認めたあまり、人間という種の存在を脅かす人間が登場してしまったわけだ。
彼らは今回例にあげた動物愛護だけでなく、政権批判や女尊男卑、原発反対など様々な分野に顔を出し、議論の進行を妨げる。
要は「左翼」だね。
人間が殖えすぎたことで人格に多様性が生まれ、そういった迷惑な考え方をする人間が立場を確立してしまったのだ。
ここまで読んでいただいて、結局結論が「もうどうしようもない」というのは非常に申し訳ないが、実際にもうどうしようもない。
どうしようもないことを嘆いても、それこそ時間の無駄遣いじゃないか、と言われるかもしれないが、私はことあるごとに人間について考えてしまうし、その考えている時間も嫌いなわけではないから、私にとっては時間の無駄遣いではない。
ただ、そうやって思考を巡らせるたびに、このどうしようもなさに絶望し、落胆する。
人間は殖えすぎてしまった。
ついつい人間について考えてしまう私は、この事実の前にただ呆然と立ち尽くすしかないのだ。
今回はここまで。