【人生観】嫌いな人がいるということ
こんにちは。
Ryoです。
今回のテーマは、「嫌いな人」というカテゴリについて。
人間誰しも生きていれば、好きな人、嫌いな人が少なからずできてくることだろう。
好きな人への対応は、そのままの自分に任せればだいたいなんとかなるもの。
でも嫌いな人への対応は、なかなか難しい。
我慢し続けるのも精神衛生上良くないし、かといってズバッと言ってしまうと、その場の雰囲気を悪くしたり、その後必要なときに話しにくくなってしまう。
「じゃあ関わらなきゃいいじゃん」
学生のうちならそれでもなんとかなっていたかもしれないけど、社会人になると、関わりたくない人とは関わらないという選択肢は取りにくくなっていく。
そこで今回は、「嫌いな人」「苦手な人」の処理の仕方について考えていく。
唐突だけど、私は、人間は殖えすぎてしまった、と思っている。
だからといって、殺人鬼になってやろうだとか人種差別をしようだとか、そういうことを考えているわけでもない。
ただ、殖えすぎてしまった。
これはどういうことかと言うと、簡単に言えば「人格に多様性が出すぎてしまった」。
もっと言うと、人間の母数が増えたことで、性格的に合う人間が相対的に減ってしまった、ということである。
まあ、まだ会ったことがない人全員に会ってみれば、性格的に合う人間は増えてくるかもしれないけど、現実問題としてそれは不可能だし、本当に自分と合う人間がそんなにいるか?という話にもなってくる。
一生のうちに関われる人間の数なんてたかが知れてるんだから、母数に増えてもらったところで嫌いな人が増えちゃうだけなんだよね。
他にもいろいろ「殖えすぎてしまった」ことによる負の要素はあるんだけど、「嫌いな人」というテーマにはあんまり関係ないからここでは割愛。
とにかく、人を嫌いになるには十分すぎるくらい環境が整ってしまっている。
これを読んでくれているあなたも、ただ生きているだけなのに知らぬ間に、嫌いな人や苦手な人ができてしまったことがあると思う。
しょうがないよ。
世の中の仕組みがそうなるようにさせてしまっているんだから。
人を嫌いになるのは悪いことじゃない。
むしろ、「自分」をしっかり持って、健気に生きていることの証明だと思う。
ただ、そのアウトプットの仕方を間違えると、途端に自分が悪者になる。
というか、アウトプットした時点でもうほとんど自分が悪者。
理不尽だなあ。
もうちょっとなんとかならないかなあ。
嫌いな人について真剣に考えるようになって4年くらい経った。
ちゃんと解決できたよ。
方法はあります。
結論を言えば、「嫌いな人がいるということ」について考え続けること。
これが、「嫌いな人」「苦手な人」の最も上手な処理の仕方。
「私には嫌いな人がいる」
「あの人とあの人だ」
「あの人のああいうところと、あの人のこういうところが嫌いだ」
「もう関わりたくない」
「なんで明日も会わなきゃならないんだ?」
「行きたくない…」
「うわああああああああああああ」
これを繰り返す。
するとそのうち、嫌いになることが面倒になるか、何も気にならなくなる。
あの人に悪気はないはずなのに、なんで自分だけこうも苦しんでいるんだ?と思うようになる。
嫌いな人に費やしているエネルギーが、無駄に思えてくる。
ここまで来れば、できてしまった嫌いな人を、「普通の人」として捉えられるようになる。
ドMかよwww
ドMだよ。
人を嫌いになるということは、何もないところに自分の手で負のエネルギーを生み出すということなのだから、その消費を他人に押し付けてはならない。
これは、人として生きる上でのルールというか、使命だと思う。
自分のケツくらい自分で拭けよ、ってことだ。
負のエネルギーを友人や嫌いな本人に押し付けて発散するのは、はっきり言って幼稚だ。
こうやって、嫌いな人ができるたびに、その人について考え続ける。
私はこれをたくさん繰り返しすぎて、今ではもう人を嫌いになることがなくなった。
一度嫌いになった人も、何も変わらない普通の人として接することができている。
その人に対して、「嫌い」という感情が出てくることもない。
冒頭で、我慢し続けるのは精神衛生上良くないと書いたけど、精神衛生上良くないだけであって我慢し続けるのが良くないってことではないからね。
精神衛生上良くないけど我慢し続ける、これが解答。
今回はここまで。
ちなみに
明らかに自分のことを嫌っていて、それでいて嫌われるようなことをしてくる人に対しては、負のエネルギーを全力で投げつけてください。
そうなったらドッジボールです。
負のエネルギーのドッジボール。
絶対負けんじゃねえぞ。
でも対戦前後の挨拶はしようね。